史実で考える評価技術

「若い時分は左寄りの思想にならない奴はダメな奴だ。でも、まともな奴は年をとってきたら右傾化をするものだ。」亡くなった祖父の言葉だ。この年になると、この言葉の意味するところが良くわかる。若いときは熱情的であることが大切。かつての学生運動などまさに熱にうなされた状態である。熱情的な状態は、ものごとを極めて単線的な捉え方にする。単線的に捉えると美しく見えるものである。

歴史上で例を挙げてみよう。明治時代の元勲である伊藤博文と板垣退助の比較である。「板垣死すとも自由は死せず」この言葉が板垣をイメージつけているところが大きいと思う。自分自身もそうだったが、少なくとも中学校で歴史を学んだときには、板垣が結党した自由党はフランス型政体を目指した急進派と位置づけられ、従って板垣はリベラリストであると確実に思っていた。一方、伊藤はドイツ型立憲君主制を日本に導入した張本人で守旧派というイメージであった。これだけの事実関係からの印象では、中学生にとっては、板垣=善人、伊藤=悪人という構図が成り立つ。だが実際はどうだったか。史実を積み重ねて見ていけば板垣よりも伊藤の方がリベラリストであったことは明らかだ。例えば戦争に対しての捉え方でいえば、板垣は好戦的だが伊藤は非戦的である。様々な事実を多面的に眺めていくと違った評価がされていくことになる。

「まともな奴は年とれば右傾化する」ということは、ひとつの比喩的な表現ではあるが、これは年齢を積み重ねることで、世の中の現象面を多面的に捉える能力を身につけていくことができるということを言っているわけだ。

単線的、表面的でかつ情緒的になされた評価は、中学生が板垣をリベラリストと捉えることと一緒で、実態を正確に捉えることができない。これは人事評価をしていく上でも全く同じ姿勢が求められるものである。評価対象者を情緒的にその一面で見ることをしてはいけない。あらゆるシーンにおける行動を冷静に把握していくという多面的観察を心がけることが何よりも大切となるのである。