会議の意思決定

先日、三谷幸喜監督の清洲会議を見てきた。戦国時代にもかかわらず跡目を決めるのに武力ではなく、話し合いで意思決定がされていくというところの珍しさに着目した映画である。会議に参加した武将は、柴田勝家、丹羽秀長、羽柴秀吉、池田恒興の4人。当初は1対3で秀吉が劣勢だったものを、狡猾な知力で柴田勝家に対して形勢を逆転していく、そのプロセスがこの映画の魅力となっている。結果として3対1の多数決で、秀吉の思惑通りの意思決定がされていく。結局、多数決による意思決定なので、負けた勝家にとって禍根が残り、翌年の賤ヶ岳の戦いになっていくのである。織田家は分裂していくわけだ。

このように組織における意思決定の手段として多数決原理を用いると、マイノリティサイドにコンフリクトが生じ、下手をすると組織の亀裂につながる場合がある。組織の意思決定のあり方は、本来は、多数決原理が当然のように思えるところであるが、組織内のコンフリクトを嫌うという日本人のメンタリティには必ずしもマッチしていないということから、わが国においては回避される場合が多い。

では、多数決で決しない場合の意思決定にはどのようなものがあるか。さほど重大でない内容の意思決定においては、わが国では稟議方式が最も多用されていると思われる。稟議は主に事務局が用意した素案に対して意思決定構成員の承認を個別に採っていく方式である。また、表向きは多数決の決定方式であっても、集合形式の会議ではなく、「持ち回り」スタイルで行う場合も、稟議に近い性質を有することになる。こうした意思決定方式は、表立って構成員の対立を浮き彫りにすることはないので、コンフリクトを生むことはなく、平穏な中で意思が決定される。

しかし、稟議等の方式は弊害も大きい。事務局の恣意的思惑が入る可能性があり、結果として組織としての正しい判断につながらない場合も出てくる。また、構成員が主体的責任を持たず、責任の所在が曖昧になってしまうということもありうる。要するに「長いものには巻かれろ」的な意思決定になりがちなのである。

このように、多数決でスパッと意思を決めるやり方と、稟議でゆるく意思を決めるやり方と、どちらも一長一短ある。「和を以って貴しとなす」という日本的調和を前提とすると稟議はなかなかに有効な意思決定方式であった。ドメスティックな環境で生きてきた筆者にとっても、会社員時代に体験した稟議方式は身体に染み付いたものであった。

しかしながら、欧米からはこうした意思決定は理解されない。グローバル化が進むとこうした意思決定方式はなかなか通用しなくなってくる。コンフリクトが生ずることを恐れない強さが、これからの組織には求められてくるものと思われる。