高橋まつりさんの死と労働時間の取り組み

一昨年の暮れに起きた電通における高橋まつりさんの過労自殺のインパクトは、その後、労働行政や世論に大変大きな影響を与え続けているといって過言ではない。第2次安倍政権は発足当時から日本人の新しい働き方を提起していくという取り組みを続けているわけだが、当初のイメージでは、第1次安倍内閣でとん挫したホワイトカラー・エグゼンプション制の再設定など、経団連よりのスタンスであったことは明らかだ。ところが今日(17年4月現在)的に見てみると、残業時間の超過規制など、労働者サイドに立っているという印象を持つ人も多いのではないだろうか。こうした流れのターニングポイントが、高橋まつりさんの死であったように感じられる。
この事件のもつインパクトの大きさには2つの要素があると思う。ひとつは、大学卒業したてで歳が若く、容姿端麗な才媛が、自ら命を絶つという悲劇性をマスコミがここぞとばかりの材料にしたこと。そして、もう一つは、彼女の属した会社が「電通」であるということだ。ご存知の方も多いと思うが、電通では平成3年にも同様の事件が発生している。この事件では最高裁まで争われたものであり、最高裁は長時間労働による男性社員の自殺を業務上の過労によるものと認定し、電通は安全配慮義務違反であるとして敗訴にした。まさに過労自殺に関する最高裁判例のリーディングケースなのである。その電通で四半世紀経ってなお、同じことが繰り返されているということのお粗末さ加減は、やはりマスコミの餌食になって致し方ないものであった。マスコミがこれだけ騒げば、当然世論も、ひいては労働行政もその流れに即していくこととになる。
ただ、こうした流れについては、やや情緒的なところもあり、ことの本質的判断をスポイルしないかという想いを私自身多少抱いている。この流れのままではホワイトカラーエグゼンプウション的論議が希薄になってしまったように感じているからである。
勿論、長時間労働を容認するという意味で申し上げているわけではない。長時間労働がダメなことは言わずもがなである。ただここはもう少し大局的に物事を見ていくべきと思う。
ご存知の方も多くいらっしゃると思うが、日本の労働基準法は戦前の工場法の流れを汲んでおり、工場ラインの働き方を労務管理のイメージベースにしてている。つまり労働時間と賃金が比例的につながった構造になっているわけである。そして、そのことはホワイトカラーについても同様の枠組みとなっている。要するにホワイトカラー労働者の時間管理上、柔軟性に欠けるわけだ。第三次産業の就業者割合が7割を超える現在において、こうした考えに基づく法体系は制度疲労を起こしているという点は否めない。この点については、大企業、中小企業含めて大多数の経営者が納得をしていないはずだ。
当然、ホワイトカラーにも様々な職種があり、労働時間の長さと比例して賃金が支払われるということに相応しいものあるだろう。しかし、どうしても労働時間の長さとは相いれない職種が、多々存在するのも真実なのである。こうした職種については、裁量労働制やフレックスタイム制でということで今般、労基法改正案の内容に加えてはいるが、それでもまだまだ使い勝手が良いとは言えず、もう一段突っ込んだところでこの問題を検討することの意義は決して小さくない。
ただし、こうしたホワイトカラー向けの新たな枠組みを進化させるるにせよ、企業側が安全配慮義務を全うすることは当然のことであり、電通のような労働管理体制が世間的に糾弾をされるべきであることは言うまでもない。
ここは政官民が冷静になって是々非々の検討をすべきだろう。